庄内川下流部のビューポイント? (17):石黒・田中

43 杭打ち水制工

 いつ頃施工されたか知らないが、カヌー一人旅をして通った時【ここにコンクリートの水制工があることを】初めて知った。

 木曽三川グループの勉強会で【コンクリート水制工のことを】紹介されて知ったが、明治期にコンクリート(セメント)が持ち込まれても丸太の杭に成形して且つ内部に鉄筋を入ることは、私の知るところではヒューム管と呼ばれ高度成長期のことだったのでそれ以後と思うし、戦後しばらく迄は電柱だって丸太だった。もっと興味を持ったのは打ち込み作業をどうやったか?台船から立てた姿で下ろし、エアーハンマーや動滑車ハンマーで打ったとしたら傾きの調整をどうやったのか知りたいと思った。

44 万場橋あたりが古代の海岸線

 古地図では、この辺りが海岸で庄内川も川筋を何度か変えており、戸田川・荒子川・笈瀬川は庄内川派川だったようだ。

 東海豪雨後のしゅんせつ工に関心を寄せていた。以前伏屋橋(新川)の橋を永久橋化工事のおり潜函法で橋脚基礎作りの時の土砂からマクラ貝やコハク石が出ていた(土砂の運搬先を追跡し見届けるため、休日に知人ら数人に声をかけ一斉調査したことがあった。その時、海ニナや赤ニシガイも発見したし、アオヤギ・ツメタガイの採取はべらぼうに多かった。)ので万場のしゅんせつにも強く関心をもっていた。

 

 他の場所での下水等工事にも目を向けた。向島町の工業用水本管工事(Φ1500m/m)布設では地面が淡水系と汽水域のためか、ヌマガイ・タニン・シジミ・イシガイ・カワニナが出たし、戸田川の富田緑地の橋脚工事ではやはり淡水系の貝殻が多くでて、シジミ・アサリ・カキ・フジツボ・イガイは出てない、塩分の差と水深の関係がありそうと学んだ(但し戸田郷中の工事ではヤマトシジミが大量に出てニュース報道されたがこれは一色からむき具を作った廃棄物の貝殻を大量に村内の幹線道にしきつめて、今の砂利代りで水はけをよくしてたケースはまた別の話になるが)

 

 

 話がそれたが、ズーット以前にも東海豪雨並の洪水が何度かあったらしく、浚渫土砂の大きな固まりで硬そうなところを調べると白い砂の層が何本かみえたし、土砂揚げ場で消石灰と混ぜ土質改良場に積み上った土砂に一寸多めの降雨があると一見黒く見えていた砂山が翌日白くなって見えたりして、東濃の硅砂が何度もここに流れついていたことを物語っていた。